表現のつまみ食い

表現のおいしいところをつまみ食いするエッセイです。

投稿500を越えて

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18時と20時。この時間帯に毎日のように写真をInstagramにて投稿している。初めてから1年を迎えた一方で、投稿数がついに500を越えた。

 

 

そもそも Instagramとは何か。これはSNSのひとつで、主に写真、文章、それらに関連するタグを合わせて投稿する。ここでは文章とタグのみの投稿は出来ず、写真を必ず添付しなくてはならない。気に入った投稿にいいね!やコメントで共有出来るが、他のアカウントを発信源として広げることは原則出来ない。故に自身の発信にとどまることが大半だ。

それを補うために関連するタグを付ける。タグには一定多数が共有するものもあれば、自分自身で新しくつくり、それを発信の拠点にすることも出来る。商品名、店舗名、場所、その時の気持ちなど様々なものがある。このタグというInstagramの生命線で共有して貰うのがよくある流れだ。

 

 

そんなSNSで500回投稿して感じるのは形を変えていく作品だ。

まず作品を紹介する文章。ここでは強調した部分を重点としている。ただあくまでも写真が主体な為、長すぎないように短文二行、タイトルを入れると三行以内に収めている。

三行だからと言ってそう簡単ではない。短文を一行一行確認して、組み合わせ次第だとパズルのように入れ替えたりもする。これで終わりと思いきや納得がいかず、直前に手直しをしてしまう程だ。そしてパズルが完成したものを再度確認して投稿する。

ただうまくいったからと言って反響を示すいいね!を貰う数にもちょっとばらつきがある。自信作と出したものがそんなに伸びなかったり、これで良いのかなと疑うものが良かったりする。作者とユーザーの意向は本当に未知の世界だと常々感じる。

 

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そしてメインである写真は特に大きく変化した。はじめはただ自由気ままだが、自由という言葉が合わない写真ばかりだった。自分が見たことがないものばかりに囚われ、ただがむしゃらに投稿を続けたのを覚えている。写真ジャンルも電車、クルマ、スナップ、モノクロなど統一感は全くなく、繋がりも感じなかった。

そんなある日、別業種のクリエイターとお話する機会があり、投稿を見て貰った。これが今の自分の作品だと自身満々な表情だったか不安そうな表情だったか覚えていない。でも相手の表情だけははっきりと覚えている。それは凄く険しい表情だった。見た瞬間ため息をつき、鈍感でもこの状況がよく分かるようなものだった。質問もされ、必死に命綱を片手で握るような抵抗を試みたが、曖昧な返事しか出来なかった。

そんな苦しい場面の中、アドバイスをいただいた。「まずは作品を見なさい」。

それ以来、個展などに足を運ぶ鑑賞を試みた。初めは見終えるだけで疲れていたのが、次第に数をこなせるようになっていた。数をこなしていくうちに作品が持つ感性を自分なりの解釈で楽しんでいった。

被写体も気が付けば一芸にとどめることにした。一芸に不安があり、その不安を自問することもあった。でも自分が持っていたものを照らし合わせていくうちにまだまだ知らないことを思い知らされた。気が付けば不安は徐々に消え去り、いつしか被写体の深層へと進んで行った。身近な存在でも追求をやめられない、そう向き合う日々が続いた。

 

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この500回、特に序盤と終盤の違いは大きいと思う。それは出会いで人が変わるように写真にもそう感じた。昔と作風がガラッと変わって面影が無いと思う。でも良い方向に進んでいくような気はする。

もう撮るものが無いと手を止めたい気持ちは無いわけではないが、それよりもまた新しいものへの挑戦は絶えず湧き出てくる。何よりも近くにいながらまだ知らないことが多いと感じさせるのだから。それは例え投稿がやめてしまう日があったとしてもだろう。