表現のつまみ食い

表現のおいしいところをつまみ食いするエッセイです。

身近な言葉の深層

「どこに置けばいいですか?」

「そこに置いて」

指示語だけの伝達は困る。脈絡があるならまだ助かるが「そこ」の二文字だけ。全く分からない。

指示語には省略された言葉が含まれている。場所であったり、時間であったり、状態であったり。盛り過ぎも良くないが省略しすぎもかえって伝わらないものだ。だから細かい情報の中から重要なものを選び、正確にかつ適度に伝える。

ただこの話は指示語に限ったことではない。意外とよく口にする言葉にもそのようなことがある。

 

「感動した」

先日ブログでこの「感動した」を使ってみた。書いた当初は何とも思わずそのまま下書きを完成させた。異変があったのは公開前の推敲のときだった。

一日寝かせると書いた当時の内容を忘れる。まるで自分のブログを一読者の気分で読める。その時この「感動した」という表現が違和感があった。

なんだか安っぽい。

 

隠された言葉

友人と語り合うときよく「感動した」と口にする。でも今回は不思議と安っぽいと思い、その抱いた感情に疑問を覚えた。しかし調べてみても思い浮かばない。何が高貴で何が安いのか。言語には明確な価値なんてないのだから追及のしようがない。

行き詰ったので質問を変えてみた。どう感動したのか。

今度は感動の本質に迫る。これが意外だった。

復帰したこと、今までの苦しみ、報われるような感情。

明らかに言葉が出て来る。恐らくこの回答が安っぽい正体である。「感動した」には様々な思いが省略されている。深層に眠る本質的な部分を出さないまま何気なく表現として使っているのだ。

 

安っぽいの深層

よく口にする言葉でも本質的な部分が省略されている。そのまま表現することもあるがひも解くとまた新しい表現が生まれてくる。そうした表現が相手により正確に伝わると思う。

感動以外によく口にする言葉。例えば好意を表す「好き」。これも探ってみると色々ありそうだがどうだろうか。